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​講師

プロフィール

濱 仁美
 

 

4歳でジャズダンスを始め、バレエ、ヒップホップ、チアダンスなど

様々なジャンルのダンスを習得。


中学高校時代はマーチングバンド部に所属し、2年連続で全国一位を受賞。

カラーガードというダンスパートのリーダーや部長として、

120名の部員を束ね、リーダーシップスキルを培う。

国際基督教大学に入学し、2度の語学留学と、NYへのダンス留学を経験。

多様な価値観に触れ、視野を広げる。

大学在学中から、ダンススクールの講師として3歳から大人へ、指導にあたる。
 

東京ディズニーリゾートダンサーとして、5年半多くのショーやパレードに出演。
千葉ロッテマリーンズ専属チアパフォーマー / 東京湾納涼船ダンサー /

紅白歌合戦バックダンサー/松竹歌劇団レビューチーム /

などイベント、舞台公演等にも多数出演。

2017年4月生まれの男の子、
2020年5月生まれの女の子のママ。

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アンカー 1

設立までのライフストーリー

幼少期

歌を歌うことや、コンサートに行って音楽を楽しむことが好きな父。

幼い頃から日本舞踊を習い、中高は演劇部だった母。

そんなエンタメ好きの親の元、東京都大田区に生まれました。

ダンスと歌が大好きな、活発な女の子だったそうです。

ジャズダンス教室との偶然の出会い

4歳の時。母と二人で家の近くを歩いていた際に、ジャズダンス教室の看板が目に入りました。

今でこそ、ダンス教室はたくさんありますが、その当時は珍しかった。

スタジオを見に行ってみると、ちょうどレッスン中。

ジャズダンスの先生は、そこのスタジオを週一回だけ借りてレッスンをしていたのですが、

偶然その時にレッスンをしていたんです。

母娘共に、先生やお友達の雰囲気に惹かれ、すぐに入会することとなりました。

往復2時間かけて送迎してくれた 母の愛

幼稚園の年中の時に、家族4人で横浜に引っ越し、

家のそばのキリスト教系の幼稚園に、途中入園しました。

母が、幼稚園のそばの集会室を押さえ、幼稚園のお友達に声かけ。

ジャズダンスの先生を呼び、横浜クラスを開設しました。

開設時から生徒が集まっていましたが、知らない土地だったにも関わらず、

お友達をたくさん呼ぶことができた母の行動力や影響力はすごいと思います。

引越し先に先生を呼べたことで、わざわざ東京まで通う必要はなくなったわけですが、

東京クラスにも通い続けることに。

毎週、母が首都高を片道1時間以上かけて運転して、送迎してくれました。

帰宅は21:00近くでしたね。

自分が母となった今、子供の習い事は近ければ近いほどありがたいですし、

高速に乗って東京に行くなんて考えもしません。

母の愛のお陰で、今の自分があるんだと思います。

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いつしか ダンスがアイデンティティに

ジャズダンス教室には4歳から通い続けていたので、小学生の頃には、

発表会ではソロで一曲踊らせてもらったり、2クラス通っていたので出演曲数も最多でした。

弟も4歳から通っていたし、新設された成人クラスで母も踊っていたので、

発表会に父以外の3人で出演していた時期もありました。

発表会は、親戚やお友達が観に来てくれて楽しそうに過ごしてもらえたことや、

いろんな衣装を着て、かっこいい自分や可愛い自分、大人っぽい自分になれるのが嬉しかったです。

 

先生と母も仲がよく、先生はうちにお夕飯を食べに来たりしてくれていました。

こうして、お教室は安心して自分を表現できる自分の居場所と思えるようになり、

私にとってダンスがアイデンティティとなっていきました。

小学校6年生で「ディズニーダンサーになりたい!」

小学校卒業の際、「将来の夢」を題材に作文を書きました。

その作文で「ディスニーダンサーになりたい!」と宣言してからは、

一気にリアルな夢になりました。

ディズニーダンサーに対して最も魅力を感じていたのは、

自分として踊るのではなく、「自分以外の何か」を演じる、という部分。

何かになりきって踊ることが好きでしたし、その意識は今でも変わりません。

中学高校時代

中学高校は一貫校に通い、6年間マーチングバンド部に所属。

カラーガードというダンスパートにいました。

「努力・忍耐・協力」がモットーの120名部員がいる全国強豪校で、

入部当初は「〇〇でいいですか?」は禁止で「〇〇でよろしいでしょうか?」

と言わないと先輩から怒られたり、コンクリートに正座して先輩の話を聞いたり、

先輩の使う譜面台やダンスに使う小道具を全て後輩が用意したりなどなど・・

上下関係に非常に厳しく、理不尽な決まりも多かったんです。

ちょうど中二の時に、長年部を育ててきた先生が退任され、

中三の時に外部から最強スタッフチームが来ました。

後輩ばかりに負担が行くルールを一掃したり、仲間を想い合うことの大切さを教えてくれて、

部員一人ひとりの意識も少しずつ変わっていきました。

そのお陰で、その年と翌年、2年連続全国優勝を果たすことが出来ました。

座右の銘の一つでもある「習慣は第二の天性」という言葉は、その時のリーダーからの教え。

「私には出来ない」と思ったことでも、コツコツ練習して体に染み込ませることで、

いつの間にか出来るようになっていきました。

もう一つの座右の銘「努力は裏切らない」という言葉と共に、頑張ればなんだって出来る、

という信念が確固たるものになった時期は、この6年間だと思います。

 

中3では副部長、高二で副部長、高三で部長を務めました。

親や先生には「役職に付かなければ、部活は続けてもいい。」と言われ、

大学受験と両立して部活を続けることに決めました。それにも関わらず、部長になった自分。

私を想ってくれる大事な人達の反対を押し切ってまで決めたことだったので、

受験も部活も失敗は出来ない、という強い想いがありました。

しかし、12月の全国大会で、グランプリを取ることが出来ませんでした。

完璧主義で、根っからの学級委員タイプでもあった私にとって、大きな挫折でした。

 

部長である自分についてきてくれたみんなに対して申し訳ないという想いや、

自分の努力不足だったという苦しさ、グランプリを取って最高の達成感を味わいたかったという

悔しさなどに押し潰されて、学校に行っても教室にいられなくなるくらい、涙の溢れてしまう日が数日続きました。

大学入学と アメリカへの三度の短期留学

自分が希望して英会話に通わせてもらっていたくらい英語を話すことが好きで、

学校の教科の中でも英語が一番好きで得意でした。

そんな中で、グローバルな環境に身を置きたい、

多様なバックグラウンドの人と接したい、と思い、国際基督教大学(以下、ICU)に入学しました。

入学してみると、帰国子女や留学経験がある人、留学生など、

英語に抵抗のない人たちが多い中で、英語は聞き取れないし成績もそこそこ。

特に英語で講義を受ける際は全然わからなくて情けなくて恥ずかしくて、

その場で泣けてきたこともあります。

そんな環境だったので、だんだんと「そこそこでいいや〜」「単位落とさなければいいや〜」と

気を抜けるようになってきたんですよね。

高校の時までは「完璧でありたい」「期待通りでありたい」というモチベーションで、

頑張り続けてきたんですが、ICUでは勉強に関しては頑張ってもそこそこだなぁって、気がついて!

人と比べてどうっていう順位や優劣より、自分がどうなりたいか、が頑張る基準になりました。

ICUはDiversity(多様性)を重視しているんですが、そもそもいる人の文化や人種が多様。

自分と違うものを排除するのではなく、尊重する。あるいはいい意味で、気にしない。

一人一人が自由で自分らしくいられる環境だったんです。

一人ひとりの個性を大事にしたい、可能性を伸ばしたいと思う気持ちは、

ICUで培われたのかもしれません。

 

留学先のアメリカは自分らしくいられる場所だった

大学1年生の夏休みの6週間は、ボストン。2年生ではサンフランシスコに、語学留学へ。

そして大学3年生の時にはニューヨークにダンス留学に行きました。

初めての環境で、初めての人に出会い、初めての経験をすること。

そのことに不安は全くなく、楽しくて仕方がなかったです!

アメリカ人ばかりの中に飛び込むのではなく、

いろんな国からいろんなアイデンティティを持った人たちが集まっていたので、

何かに合わせるのではなくて、自分らしくいられることが楽だったんですよね。

なぜアメリカばかり選んだのかというと、シンプルに「好きだから」。

はっきり説明は出来ないれけど、フロリダの「ディズニーワールド」や

ニューヨークの「ブロードウェイミュージカル」に憧れていたり、

表情やジェスチャーで豪快に表現する文化に惹かれていたのかな、と思います。

ディズニーダンサーオーディションへの準備も本格的に

サークルはストリートダンスサークルに4年間いました。

そこで好きなジャンルのダンスを好きなだけ楽しみながら、

ディズニーオーディション合格を目的としたダンススタジオにも、週3〜4回通っていました。

4年の時には、単発でイベントや舞台出演の仕事もしていて、

やりたいことがパンパンに詰まった4年間でした。

 

大学2年生の時から、ディズニーダンサーのオーディションを受けていましたが、

4年生の時に受けた3回目のオーディションも不合格。

千葉ロッテのチアに合格したので、卒業後の2年間は、チアの仕事を中心に、

舞台出演や、スポーツジムのアルバイトをしていました。

大変だと思うことも多くありましたが、

さまざまな現場での出演経験が大きく自分を成長させてくれました。

 

プロセスそのものに意味があった!

4回目のオーディションも合格できず落ち込みましたが、恩師に

「今は辛い時だと思っているかもしれないけど、そうじゃないよ。

夢に向かってキラキラ輝ける時なんだよ!」

と言われ、ガラッと意識が変わって、ポジティブにあの時間を楽しめるようになりました。

恩師の指導の元で頑張れば、自分自身でも成長を実感出来ましたし、

「頑張ればきっといつか合格出来る!」と信じ続けることが出来ました。

あの時は、結果を出さなくては意味がないと思っていましたが、

何かを目指して頑張っている時間、夢を見ている時間そのものに、

大きな価値があったんだと思います。

ようやく夢のスタートラインに

5回目のオーディションでついに合格。

当時は、7月ごろに書類を提出して、一次審査、二次審査、面接と進み、結果が出るのが年末。

毎日のように合否結果が届くであろう家のポストが気になって気になって・・

精神的にしんどかったです。

その分、合格通知が届いた時の喜びは大きくて、膝の力が抜けて泣き崩れたのを覚えています。

応援してくれていた友人や親戚もまるで自分のことのよう喜んでくれて、

お祝いの寄せ書きをもらったり、サプライズで合格祝いパーティまで開いてくれて、

いつの間にかこんなにもたくさんの人が私の夢を応援してくれていたんだと、

改めて感謝の気持ちでいっぱいになりました。

 

待ち受けていたのは 辛い試練

ディズニーダンサー1、2年目は、本番は失敗のないようにと毎回緊張していましたし、

先輩の目が気になったり、出たいショーにキャスティングされなかったり、

人間関係の悩みも尽きませんでした。

上手く踊れない自分が悪い、言われた通りに出来ない自分の能力や努力不足、

と自分を責め続けるような出来事もありました。

出来る限りの努力はしたつもりでしたが空回りするばかり。

やがて精神的に耐えきれなく、もう行きたくない、逃げたい、ダンサーを辞めたい、

と思うほどになってしまったので、すがる思いで、心理カウンセラーの友人に

相談することにしました。

新宿のカフェで、ポロポロ泣きながらも、自分を責めるばかりの私の話を

一通り聞いてくれた彼女は「仁美ちゃん、十分頑張ってるよ、もう頑張らないでいいよ。」と、

私の目を真っ直ぐ見て言ってくれました。その言葉に、心の傷が癒されていくのを感じました。

ようやく誰かに助けを求めることができ、

努力だけではどうにもならないこともある、と気が付くことが出来ました。

ダンサーとして幸せな日々

4、5年目にもなると、仕事にも慣れて、信頼しあえる仲間も増えて、幸せな毎日でした。

リハーサルは緊張感があるし、早朝や深夜リハもあって

体力的にしんどい時期もありましたが、本番は毎回心から楽しかったです。

プライベートの悩みがあったり、体調がすぐれない時も、

ディズニーのお姉さんとしてスイッチオンして、ゲストの笑顔を見たら、全て吹っ飛んでしまうので、

「早くパレード出たいー!」と思っていました。

仕事でストレスを抱えるのではなく、ストレスが吹っ飛ぶなんて、

なんていい仕事なんだろう、と思っていました。笑

 

特に、ゲストと近い距離で笑顔を交わし合い、心を通わせることが出来る、パレードが大好きでした。

ある日のことでした。

私が笑いかけてハイタッチをしたところ、笑顔を見せてくれた小さな女の子。

すると、そのお父さんお母さん、おじいちゃんおばあちゃん、周りのお客さんへと、

次々と笑顔が連鎖していったのです。

「笑顔の連鎖」が目の前で広がっていったあの瞬間を、今でも忘れません。

 

たくさんのゲストの笑顔に、幸せをもらえる毎日でした

引退後も アクティブに

結婚を機に、ディズニーダンサーを引退しました。

引退後すぐに、夢だったディズニーワールド旅行に行きました!

子供の頃から、ガイドブックを買って読み込んでいた夢の場所でした。

そこで空港からホテルまでアテンドしてくれたのが日本人のおじいちゃんで、

私もいつかこの仕事やれるかも、って思ったんです。

将来の夢の一つが駐在妻だったので(笑)、

その際は空き時間にこの仕事したいな、と頭に浮かびました。

その後すぐに妊娠をしたので、新しい仕事を始めたり、ダンスに打ち込むタイミングでもなく、

旅行関係の職業訓練校に3ヶ月通い、添乗員の資格を取りました。

大きくなりつつあるお腹で、バス添乗の研修に参加して、蕎麦打ちや工場見学をしました。笑

その後は、出産に備えて週3程度ピラティススタジオに通ったりと、

今しかできないことを逃したくなくて必死な妊婦期でした。笑

 

「ママ」ならではの 新たな世界 

無事に男の子を出産。産後1ヶ月で、ダンスインストラクターに復帰しました。

元々家にこもっていられない性格だったので、

児童センターなどの赤ちゃん連れイベントに通い詰め、新しいお友達づきあいにワクワクしました。

自分主催のママサークルや、赤ちゃん連れのピラティス教室も定期的に開催しました。

人を繋いで、みんなで一緒にハッピーになることが好きなんだなぁと再確認しました。

新たな出会いや経験は楽しかったですし、子連れでも出来ることを出来る限りやりましたが、

子育てをすることは当たり前のことに思えて、

「頑張っている」という自己肯定感が持てませんでした。

 

アイデンティティの揺らぎ

産後しばらくは、息子を私の母と夫にお願いして、

週2回、2ヶ所のダンススタジオでダンスインストラクターの仕事をしていましたが、

夫にも頼みづらかったですし、やがて周りに頼ることに対して自分が辛くなり、

1年後に1ヶ所、2年後には2ヶ所とも辞めてしまいました。

自分のやりたいことを全力で頑張っていない自分、やりたいことに夢中でキラキラしていない自分。

我慢ばかりして、くすぶっているように思えて、モヤモヤ。

ずっとダンスがアイデンティティだったから、

踊っていない自分を自分として認めてあげられませんでした。

ワーママの 理想と現実

運よく保育園に入園出来ることが決まり、また本来の自分を取り戻せるのではないかと、

意気揚々とダンス関係の仕事を探し始めました。

しかし、子供が小さいうちは急な病気などもよくあると聞くので、

いきなりインストラクターの仕事を詰め込んでも、

自分も家族も大変なんじゃないかと悩んでいました。

「ダンス以外の仕事も考えてみたら?別の世界を見て、視野を広げてみたら?」

という夫のアドバイスを聞き、派遣会社に登録して応募してみたりしましたが、

タイミング良くアルバイトを探していた大学の後輩のベンチャー企業で

働かせてもらうことになりました。ただ、この選択で本当に良かったのかどうかは、

この時はまだ不安でした。

 

働き始めてすぐ、息子が熱を出して保育園に預かってもらえないことや、

呼び出しもしょっちゅうありました。

保育園通い始めの、あるある話だとは思いますが、

ここまで通えない日が多いとは思っていませんでした。

人に頼ることが苦手で、心配性な性格なので、もしインストラクターの仕事をしていたら、

息子を心配する気持ちと同時に、その都度必死に預け先を探し、頭を下げて、

精神的に不安な状態でいることが多かったと思います。

働き始めた職場は、その日その日で出来る範囲の仕事だけを割り当ててくれて、

子供が急に熱を出しても「大丈夫?お大事にしてください。」と心配をしてくれる優しい人ばかりだったので、本当に助かりました。

 

今 出来ることにフォーカス

いつかは自分が主催して子供にダンスを教えたいな、という気持ちはずっとありましたが、

自分のペースで働き続けているうちに「子供がいるから出来ないこと」よりも

「今 出来ること」にフォーカスしていき、

今の自分に少しずつ満足できるようになってきました。

あれもできない、これもできない、と子供がいるから出来ないことや、

我慢しなくてはいけないことをぐちぐちと嘆いていた私に対して

「仁美、子供がいるからこそ楽しいことや幸せなことがいっぱいあるんだよ。」と

母が気づかせてくれたのがきっかけでもありました。

その時の母は、少し困ったような、悲しいような表情を浮かべていて、

私を大切に育ててくれた母や、生まれてきてくれた子供に対して、

申し訳ない気持ちになったのをはっきり覚えています。

 

2年働いたのち、第2子となる娘を出産。約1年間の育休に入りました。

大学の時からずっと東京住まい。

その時も品川区に住んでいて、その便利さ、住みやすさを気に入っていて、

東京以外に住むということは、夫婦ともに考えていませんでした。

特に私は、東京にいないと周りから取り残されるような焦りに近い気持ちもありました。

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転居をきっかけに心機一転

コロナによってリモート勤務となって、職場の近くに住む必要がなくなり、

さらに電車に乗ったり、商業施設に出かけることもなくなり、

まだ子供が小さいということもあって自転車圏内の近くの公園で過ごすという日常に

満足するようになりました。

そんな価値観の大きな変化と、引っ越しを検討するタイミングが重なり、

初めは候補地が品川区内限定だったにも関わらず、

次第に横浜寄りの東京、やがては湘南寄りの横浜、と東京から距離も気持ちも離れて行きました。

なかなかこれといった物件に出会えないまま半年過ぎる頃、

たまたま目にした戸塚の新築マンションに惹かれ、

そのままジェットコースターのような勢いで購入、引っ越しへと進みました。

夫婦ともに、気持ちが揃ったことがとても嬉しかったのを覚えています。

 

本当に大事にしたいものは何?

引っ越しをしてすぐに、新しい幼稚園と、保育園にそれぞれ入園した子供たち。

私も、すぐに育休が明けようとしていましたが、

せっかく引っ越しもして心機一転したのに、職場にそのまま復帰するだけではたしていいのだろうか、

というモヤモヤとした想いがありました。

何を仕事にしたいのかな?何を大事にしたいのかな?

と、いうクエスチョンは大きくなるばかりだったので、

ライフコーチングのコーチである夫や、夫に紹介してもらった女性コーチに話を聞いてもらいました。

話を聞いてもらうことで、やはり自分にとってダンスは大事なもので、

ダンスを通して子供たちや親御さんをハッピーにするコミュニティを作りたい、

という価値観が明確になってきました。

また、実家が近くなって、子供に何かあったときに私の母親に頼りやすくなったということも大きく、

夢だったダンス教室を始めるべく一歩踏み出すことが出来ました。

スマイリンク創設の決意

気持ちが決まってからは、夢中でした。

会場のリサーチから始め、実際に多くの会場に見学に行きました。

チラシを手作りして幼稚園やマンションに貼ってもらったり、

ホームページを作成したり、夢中で準備を進め、体験会や、夏休み特別レッスンを開催しました。

引っ越したばかりで知り合いも少なかったのですが、

幼稚園のお友達がLINEで広めてくれて、たくさんの方に来てもらえました。

来てくれるお子さんも親御さんもとても喜んでくれて、

すごく嬉しかったし、自信を取り戻すことが出来ました。

 

しかし、いざレギュラーレッスンを開始したところ、実際に入会してくれたのは1名のみ。

徐々に増えていく、大丈夫、と自分に言い聞かせてはいましたが、

正直もっと集まるだろうと過信していた部分もあったので、

自分を否定されたような悲しさや、焦りや不安もありました。

そんな精神状態だったので、自分のやりたいことを貫く強さを持てず、

どうしたら人が増えるんだろうということばかり考えて、なんとなくぶれているような感覚が続きました。

 

その後、少しずつ人数が増えていきクラスを増設するまでにもなり、レッスンの時間はとても楽しく幸せでした。

 

自分と徹底的に向き合い 想いがカタチに

その一方で、人が増える分、いろんな子供や親御さんとも関わることとなり、

自分の力不足を責めて、落ち込むことも多くなり、

こんなにいちいち周りの声を気にしてしまう自分は、主宰に向いてないんじゃないかと思う時期もありました。

子供たちに笑顔の大切さを伝え、自信を持てるように勇気づけたいと思っている私自身が、

こんなにくよくよしていて、ネガティブだなんて・・このままではダメだ!!、と、

気持ちを奮い立たせて、自分がなんのためになにをしたいのか、改めて問い直し、その想いを言語化しました。

その中で、スマイリンクが目指す未来である「ビジョン」、

そのために成し遂げるべき「ミッション」、意思決定や行動指針となる「バリュー」ができ、

そのことで頭も心もシンプルで軽やかになりました。

 

仲間と共に さらなる夢の実現へ

創設から1年。

「本番出演」という、1つ目の目標は達成することが出来ました。

笑顔が人から人へ広がり、愛で溢れていく瞬間・空間。

体の内側からエネルギーが惜しみなくほとばしるような「生きている」という感覚。

無意識に心と体が懐かしんでいたこの感覚がはしり、「これをみんなで味わいたいんだ!!」と確信しました。

 

スマイリンクの想いに共感してくれる仲間が次第に増えていったら、

いつかは、スマイリンク単独で発表会を開催したいという夢もあります。

一人でも多くの子供たちが「自分の笑顔で 誰かを笑顔に出来た時の喜び」を知り、

自分らしく輝ける人、周りの人の輝きを尊重出来る人へと成長していってほしいです。

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